西南学院大学での講話より一部抜粋 −−−はじめて作った九条Tシャツ100枚を、世界バプテスト大会でプレゼントした時のこと…。 九条を世界へ 種まきプロジェクト
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はじめのはじめ
…くずめよしはなぜ「九条Tシャツ」を始めることになったのか?
そのきっかけについての西南学院大学での講話です。
憲法九条と私
国際文化学部 非常勤講師 くずめ よし
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
新約聖書「マタイによる福音書」第6章9節(新共同訳)
皆さん、こんにちは。私は、この西南学院大学で中国語を教えているくずめよしと言います。
私は、今私が着ているこの「九条Tシャツ」」を、2年以上に渡って、世界中に配っています。この「九条Tシャツ」は前面に日本語で「日本国憲法第九条」が縦書きでプリントされており、背中には、同じものが英語で横書きでプリントされています。これは、この西南学院大学の生活協同組合(生協)が作ってくれているものです。今日は、私がなぜこのようなことを始めたのか、そのきっかけについてお話したいと思います。
そもそも、私と「憲法九条」の初めての出会いは小学生の時にさかのぼります。多くの皆さんと同じく、私も小学校の社会科で初めて「日本国憲法」について学習しました。そして、その3本柱が「主権在民」(最近は「国民主権」と言いますが、)「平和主義」「基本的人権の尊重」だということを教わりました。中学生になると、「平和主義」にもやはり3本柱があること、それは「憲法九条」によって規定されている「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」だということを学びました。そして、そのような憲法を持っているのは日本だけで、世界で最も進んだものであると聞き、誇らしく思いました。その一方、日本には自衛隊があり、その存在が「憲法九条」の唱える「戦力の不保持」に抵触するのではないか、という議論があることも知り、複雑な気持ちになりました。
私が2回目に「憲法九条」に出会ったのは、1980年代に中国に留学した時です。当時はまだ、1931年から1945年まで15年間にわたり日本と中国が戦った日中戦争の経験者がたくさん生きている頃でした。戦場となった中国で、人々は日本軍と様々な関わりを経験していました。そのような人々は、ひさしぶりに出会った日本人である私に、以下のような素朴な質問を投げかけました。「この間の戦争で、日本は負けた。一緒に負けた三国同盟のイタリアの戦争指導者ムッソリーニは、絞首刑になった。ドイツのヒットラーは、拳銃自殺した。なのに、なぜ日本の天皇は死刑にならず、いまだに生きているのか? 日本人は一体どう思っているのか?」その当時の私は以下のように答えました。「天皇は、アメリカが日本を第二次世界大戦後に占領した時に、利用するために生かしておいた。しかし、日本人はもう戦争はこりごりだと思っている。その証拠に、戦争の後、もう二度と戦争はしないということを目的に、新しい憲法を作った。その中の第九条では戦争を放棄すると約束している。しかも、それを実行するため、いかなる戦力も持たないとまで宣言している。」それを聞くと多くの中国人が、「へえー。そんな憲法があるなんて知らなかった。でも、そこまでしているのなら、日本人の戦争に対する嫌悪は本物だろう。」と、納得してくれました。私は、「憲法九条」があるおかげで、戦後の日本人は中国大陸を平気で歩けるのだ、ということを思い知らされ、「憲法九条」の威力に驚かされました。
ただ、私自身は「憲法九条って嘘(うそ)臭い。」と思っていました。「言葉はきれいだが、内容が伴っていないじゃないか。」と斜めに見ていました。というのは、若い時は物事を「白」か「黒」かの二分法でしか捉えられないからです。それと言うのも、受験勉強の中で「正解」か「不正解」かをいつも考えるように訓練されてきたからです。その視点で見ると、「憲法九条」は「灰色」でした。
しかし、一方で次のような経験もしました。今はなき東ドイツ、つまり東西冷戦下のヨーロッパにあった社会主義国東ドイツから来た留学生に、「日本国憲法第九条」と同じ戦争放棄の憲法を持っている国が他にもあること、それは中米のコスタリカであるということを教えてもらいました。一昨日の火曜日には、コスタリカ研究家の足立力也さんが来られて、このチャペルでお話されたので、皆さんの多くはそのことをご存じでしょう。当時の私は初めてその事を知り、しかも、コスタリカは本当にそれを実行していて軍隊を持っていないと聞いて、「すごいなあ。」と思いました。そして、彼女に「実は日本には自衛隊があって、日本の憲法九条は口先だけなのよ。」と言ったところ、彼女からは、「実行の有無はともかく、コスタリカのような小国ではなく、日本のような先進国の大国が、戦争放棄を憲法ではっきり明言し、それを世界に公言していることが、世界の人々にどれだけ大きな影響を与えていると思うの? その世界史的な意義はとても大きいのよ。」という答えが返ってきました。それを聞いて私は、世界の人々の目に「憲法九条」がどう映っているのか、ということも考える必要があるのだなあ、と思いました。
しかし私自身は正直なところ、その後も長い間「憲法九条」は現実とはかけ離れた口先だけの理想主義だと思い、興味も関心も無いままに過ごしていました。そんな私の3回目の「憲法九条」との出会いは、2005年7月にイギリスのロンドンで起こった同時多発テロでした。その年私は、夏にイギリスのバーミンガムで行われる「世界バプテスト大会」に参加するつもりで、春先から準備をしていました。その準備の途中で、その年の3月から激化したイラクへの空爆に対して、空爆をしているアメリカとイギリスに世界中の憎しみと怒りが集中しているような感覚が、私の身体にやって来ました。何とも言えない気持ち悪さ、恐さ、嫌悪感を感じ、予約していた英国航空をキャンセルし、別の、空爆とは関係ない国の航空会社に変更する手続きを始めました。そのとたん、ロンドンで同時多発テロが2回起こったのです。私は震え上がりました。
その時私は偶然、それより1年以上前、2004年6月に日本の著名な文化人9人が立ち上げた「九条の会」のアピールを目にする機会がありました。最初は冷めた目でそのアピールを斜め読みしていたのですが、最後の文章が私の心に突き刺さりました。そこには、こうあったのです。「日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、(略)一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを(強く)訴えます。」
それを見た瞬間、「私も何かしよう。今の私に出来ることは何だろう?」と考えました。「そうだ、私はこれから世界大会に行く。そこには世界150カ国から1万人以上の人が来る。その内の7割以上はアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの第三世界の人々だ。これらの国々の人々は、日本に憲法九条があることさえほとんど知らない。知っているのは欧米の一部のインテリだけだ。じゃあ、この第三世界の人たちに憲法九条を知ってもらおう。そのためにはどうしたらよいだろうか? ベニヤ板に書いて、背中に背負って歩き回ろうか。いや、そんなことをしたら大勢の人で混雑するところで迷惑だ。もっと、柔らかいものが良い。そうだ、Tシャツならどうだろうか。憲法九条の条文をプリントしたTシャツを着て、それを見せながら歩けば良い。」そう思って翌日さっそく東京の「九条の会」の事務局に電話をしました。私はその時は自分が着て歩くために1枚だけ入手するつもりだったのです。ところが、「九条の会」の方は、そのようなTシャツに関する情報は持っていないとのことでした。そして、その代わりに1947年に公布された当時の「憲法九条」の日本語と英語の原文を送って来てくださいました。
次に私は、「ではオリジナルでTシャツを作らなくてはならないのか? 西南の生協なら作ってくれるだろうか? 頼むとしたら、最低何枚から作ってくれるのだろうか? 100枚単位だろうか? お金はいくらかかるだろう? 1枚1000円としたら、えーと、100枚で10万円! ええっー!」などと考えながら、初めて西南生協の事務所の扉を開きました。すると、何と、その時はちょうど「Tシャツ作製キャンペーン中」で5%割引期間だったのです。私が、うろたえながら自分の考えを話したところ、事務所の方は、「分りました。その条件で100枚作りましょう。」とおっしゃってくださいました。
しかし私は、初めは「100枚出来てきても、やっぱり全部持って行くのは重いから、日本で知り合いに配ろう。イギリスには、自分の着る分と、もしお土産に欲しいという人が現れた時のために10枚ぐらい持って行けばいいだろう。」と考えていました。そして、知人の一人にそのことを話し、「Tシャツが出来たらあげるね。」と言ったところ、まさしくその時二人の目の前にあったのが、この本だったのです。『SOWING NINE 9をまく』。これは、日本の無名の若い人9人、平均年齢28歳の人たちが作った本で、彼らは「9LOVE(クラブ)」というグループを作って、「憲法九条」で「遊んで」います。彼らは、「憲法九条」は、法律の条文という堅い殻に包まれているけれども、その中に秘められているメッセージは、もっとずっと柔らかい命の種なんだ。それは、エコロジカルでスローライフでロハス(Lifestyle of Health and Sustainable Development)な命の種なんだ、というコンセプトでした。そのコンセプトで「憲法九条」をテーマに、パンを焼いたり、ジュゴンと泳いだり、キャンドルを灯したり、サーフィンをしたりして「遊んで」いました。そして、その本の「はじめに」の最後の部分に、「(このメッセージを伝えることは、)種を蒔くようなこと。蒔き時は、今です。」とあったのです。そしてその知人は「よしさん、Tシャツは1枚でも多くイギリスに持って行きなさい。そして、憲法九条の種をなるべくたくさん世界中に蒔き散らして来なさい。」と、私の背中を蹴り出したのです。
私は、前期試験が終わった当日、出来たばかりのTシャツ100枚が入った大きな段ボール箱を生協から受け取り、それを両腕で抱えて、そのままイギリスに直行しました。そして、世界バプテスト大会に来ていた、旧社会主義国のロシア人や東ヨーロッパの人々をはじめ、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの第三世界の人々にプレゼントしました。Tシャツは、段ボール箱を開けたとたん、本当にあっと言う間に人だかりができて、100枚が30分でなくなりました。私の周りで、Tシャツをもらえなかった人々からとても残念そうな声が上がりました。一人が「日本に帰国したら私にTシャツを郵送してください。」と名刺を私に渡しました。すると、次々に500人以上の人々が「私にも、私にも。私にも送ってください。」と言って、私の手の中に名刺を置いて行ったのです。
その方たちは、私に向かって口々に次のようにおっしゃいました。「日本国憲法第九条が伝えるメッセージはとても大事な事だ。ぜひこの暴力で傷んでいる世界にこの情報を伝えてほしい。特に子どもたちに伝えてほしい。今私たちの子どもたちは豊かになるためには、まず強くなって、弱いものを虐げなくてはならないと思っている。暴力に頼って、弱いものから富を奪うことでしか、豊かになる方法はないと思っている。このような考え方には希望がない。しかし、日本の歩んで来た道は、これとは違う。日本は60年以上も戦争をせず、暴力による支配によらずに、繁栄を築いてきた。この日本モデルをぜひ世界に、特に子どもたちに知らせてほしい。そうすれば、子どもたちは暴力に頼らなくても豊かになれるという実例があることを知るだろう。そして、未来に希望を持つことができるだろう。」
そうおっしゃる方々の多くは、紛争地域の出身者でした。中央政府と少数民族、部族間・宗教間の対立などによってさまざまな暴力が支配する地域から来られた方々でした。そうした地域では、暴力や殺人が日常生活の中にあり、中には目の前で家族や友人を殺されたり、自分自身が拷問や暴力を受けた経験をお持ちの方もいました。そのような方々の切実な声は、私の胸を激しく打ちました。
その方々の言葉を胸に、その2日後にロンドンに行ったところ、今度は私は3回目のテロに遭遇してしまったのです。実は、それはテロではありませんでした。後で分かったのですが、1台のバスのエンジンが故障して、車両の後部から煙が噴き出したのです。しかし、人々はそれを新しいテロだと考えて、パニックになってしまい、バスの2階から飛び降りて怪我をした人も出ました。町中にBombing! Bombing!という張り紙が出て、人々の顔は恐怖に引きつっていました。町のあちこちで検問がありました。私は首から自分の名前と国籍が書かれた名札をぶら下げ、「Japan! Japan!」と叫びながら検問をくぐり抜けました。
「Japan」と言うと、検問をすっーと通してくれますが、すこしでもイスラム風の格好をしていたらものすごく厳しいチェックを受けるのです。イギリスに行かれた方はご存じだと思いますが、ロンドンやバーミンガムのような大都市では、住民の多くが今のパキスタンをルーツとするイスラム教徒です。その街で生まれ育った住民が、ただ恰好だけで、不信の目で見られ、犯罪者扱いされ、公衆の面前で身体検査を受けるのです。特に、ベールを被っている女性に対する検問は厳しく、幼い子どもを何人も連れた若い母親の荷物の中味を、どんな小さなものまでも細かくチェックしていました。
また、ある駅では、てんかんの発作を起こされた方がいたのですが、皆遠くから眺めるだけで誰も助けようとしません。普段なら、きっと誰かが助けたと思うのですが、この日は、「ひょっとしたら、テロの罠ではないか?」という不安から、誰も近付くことが出来ません。この日のロンドンはテロの恐怖によって、人間が本来持っている優しさや思いやりが凍りついていました。
テロとは、フランス語の「テロール=恐怖」から来た言葉で、「恐怖で人々を支配すること」を意味します。その原義の通り、その日のロンドンは「テロ」、すなわち「恐怖」に支配されていたのです。私はこの「テロ=恐怖」の中で、改めて世界では「日本人である」ことは、「平和な人たちである」と思われている、という事実を骨身にしみるほど感じました。それはなぜなのか? それは、取りも直さず、それまでの60年間日本が戦争や国家による暴力行為に直接参加して来なかったこと、日本の軍隊が日本国外でただの一人も人を殺したことがないことによるのだ、ということを知りました。そして、日本がそのように出来たのは、他ならぬ「憲法九条」があったからこそであり、「憲法九条」こそ、人々を「テロ=恐怖」からの解放に導く強い力であることを、改めて思い知らされたのです。
帰国後私はバーミンガムで渡された500枚の名刺を持って、またもやおろおろと西南生協に行きました。「一体、どうしましょう。」すると、生協の方は、「とりあえず、500枚のTシャツを作りましょう。」「しかし、代金はどうするんですか? 私にはもうお金はないです。」「代金は、お給料が入るたびに、少しずつ払ってくれれば良いですよ。」「利子は?」「利子はいりません。」またもや「ええっー!?」何が起こっているのか良く分からないままに次に生協に行くと、何とそこにはもう既にたくさんの大きな段ボール箱に入った500枚のTシャツが出来上がって来ていて、事務所の空間を半分くらい占領して、うず高く積み上げられていたのです。私はそれを見たとたん、「今から私はこれを世界中に配るのか。」と思って、その場にへたり込みました。
こう言う訳で、この「九条Tシャツ」は、この後、継続的に世界の人々に配られるようになりました。あれから2年少しの時が経過しました。その間に、このTシャツを受け取ってくださった海外の方々は、世界約80カ国130地域、2300人以上にのぼります。今では、私が一人で配っているのではなくて、さまざまな方たちがご自分で世界各地に持って行って配ったり、日本国内で自分の周りにいる外国人にプレゼントしたりしてくださっています。
例えば、昨日ここでお話してくださった大村綾子先生の福岡YWCAは、今年の7月にケニアのナイロビで開かれた「世界YWCA大会」に持って行って、参加者に配ってくださいました。その時の写真がこれです。Tシャツを受け取ってくださった方々は、このように、Tシャツ形の色紙にお礼の言葉と一緒に「日本国憲法第九条」に関する様々なコメントを書いてくださっています。例えば、「憲法九条の伝えるメッセージはとても大切です。」とか、「私たちの国にもこのような憲法が欲しいです。」とか、です。私も今はTシャツ1枚1枚にリスポンスカード(お礼状返信カード)をつけて配っていますが、世界各地から感謝と感激のメッセージが送り返されて来ます。中には「この日本国憲法第九条を声に出して読んだら、(感動で)泣き出してしまいました。」と書いて来られた方もいます。
皆さん、世界は「日本国憲法第九条」が大好きです。世界はこの「憲法九条」の放つ命の輝きとその中に込められている祈りを歓迎しています。では、この宝のような「憲法九条」の所有者は誰ですか? それは、法的には私たち日本国民一人ひとりです。これは、私のものであり、あなたのものなのです。私たち日本人が世界に蒔くことのできる「平和の種」、それがこの「憲法九条」なのです。このようなすばらしい宝を私たち一人ひとりが持っていることを誇りに思い、世界の人々とこの恵みを分かち合って生きて行けたら、どんなにすばらしい事でしょうか。
お祈りいたします。
平和を作り出す者は幸いなり。その人は神の子と呼ばれる。
わたしたち一人ひとりを神の子と呼んでくださる主よ、私たちをそのような者として、平和を作り出す者として、生かしてください。あなたが私たち一人ひとりに与えてくださったこの平和の種を、世界の人々と分かち合っていけますように。あなたがくださった命に感謝し、世界中の人々と互いの命を喜び合うことができますように。平和の主、イエス・キリストの名によって、実現を信じて、期待して、あらかじめ祈ります。
アーメン!
2007(平成19)年11月1日 西南学院大学チャペル講話