マレーシア活動日誌
トップページ > 2018マレーシア > マレーシア活動日誌 マレーシア活動日誌(2018.08.26〜09.18)
2018.08.26(日) 高知伊勢崎キリスト教会の主日礼拝にて
主日礼拝の子どもの時間にアジアバプテスト女性大会について紹介。第二次世界大戦後にアジア諸国との和解を求めた日本女性の呼び掛けによって始められた大会です。(写真は1958年日本の静岡県の天城山荘で行われた第一回の様子)
2018.08.28(火) 福岡より出発
出発50分前までTシャツの箱詰め作業。福岡空港から台北桃園空港へ。空港の床で一泊してから、マレーシアのペナン島のバヤン・ルパス空港へ。空港では台北から同じ飛行機だった中華基督教浸信会婦女部(台湾バプテスト連盟女性部)の方々の助けにより、奇跡的に関税が無税に‼ (「宗教儀式に用いるもの」扱いになりました。)ハレルヤ! 主よ、感謝します。
2018.08.29(水)〜09.01(土) 第13回アジアバプテスト女性大会
マレーシアのペナン島にあるジョージタウン市(ユネスコ世界遺産)のジョージタウンバプテスト教会(喬治市浸信会)を会場に行われました。6階建ての大きなビルです。右の写真は開会式の様子。
世界の友たちとの再会
左の写真は、2005年にイギリスのバーミンガムで初めて九条Tシャツを配った時からの友人であるネパールのサビーナさん(真ん中)とその娘さん。サビーナさんは13年待って、初めてTシャツを受け取る事が出来ました。中の写真は、2010年にハワイのホノルルで会ったマレーシアの方々と。右の写真は、2015年の南アフリカのダーバン以来のサンナさん(世界バプテスト連盟会長ポール・ムスィ―ザ夫人)。*開会式では民族衣装を着ます。日本からの参加者は和服です。沖縄からの参加者は琉装です。
謝罪と和解のためのパラバルーン(ダンス)
日本からの参加者は、布を使ったパフォーマンスで、アジアの女性たちに対して過去の日本の罪を謝罪し、和解を求めました。
いよいよ「九条Tシャツ」配布
事務局が趣旨を理解して、全面的に協力して下さり、参加者に配ってくれました。Tシャツを受け取る方々に対して趣旨を説明し、リスポンスカードの記入までお願いして下さいました。おかげであっという間に280枚以上のTシャツを参加者にお渡しする事が出来ました。奇跡‼
韓国の方々に
韓国からの方々に、特に丁寧に説明してTシャツを受け取って頂きました。元アジアバプテスト女性連合会長のチャン・ヤンシム(張英心)さんから、とても上品で美しい日本語でインタビューを受けました。
頂いたレスポンスカード(一部)
(左)ヴェトナムの方から。(中)マレーシアの方から。日本語でコメントを書いて下さいました。(右)インドネシアの方から。 *予定より一日早く配布完了したので、贈り主の記名が間に合いませんでした!
2018.09.01〜09.16 日本軍の軌跡を訪ねて ジョージタウン(1)
大会後は、マレーシア各地に第二次世界大戦時の日本軍の軌跡を訪ねました。まず大会開催地のジョージタウンは、当時はイギリスの支配下にあった自由貿易港で、イギリスの東南アジア支配の中心地でした。中国系の人々(華僑あるいは華人)にとっても東南アジアにおける経済と政治の中心地の一つで、人口比では華人系が最も多数を占めていました。(現在もそう。州知事も華人。)
日本は1941年12月にこのジョージタウンを空爆して占領、その後約4年間にわたって支配しました。(写真左は空爆時の日本のニュース映像、右は当時の日本語教育推進ポスター*at the Historical Tunnel in Penang Trick Art Museum.
ジョージタウン(2)
当時主に日本軍と対峙したのは華人系の「マラヤ人民抗日軍(Malayan People's Anti-Japanese Army=MPAJA)」でした。(写真左は戦後発掘された「日本軍に拷問虐殺された」と考えられている死体。*at the Historical Tunnel in Penang Trick Art Musuem. 写真右は「ペナン島華僑抗戦記念碑」。
コタバル(1)
ジョージタウンからは夜行バスでマレーシア北東部のコタバルに行きました。この町はクランタン州の州都で、太平洋戦争開戦の場所として有名です。1941年12月8日早朝に日本軍がこの町の北岸に上陸したことから太平洋戦争が始まりました。(実際の時間で日本軍のハワイの真珠湾攻撃より約2時間前です。)町の人々はよくその事を知っていて、記念の博物館もあります。(ただ、改修中で見学できませんでした。代わりに州立博物館で特別展をしていました)。写真左は特別展のポスター。写っているのは当時マレー半島で対峙した日本の山下奉文将軍とイギリスのアーサー・パーシバル将軍。写真右は日本軍のマレー半島進軍経路。
コタバル(2)
コタバルは完全なマレー人の町で、厳格なイスラムの教えの中心地です。ただ、上記のいきさつで日本人の訪問客が多いので、日本人には慣れているようです。町の観光局の方は梓みちよの「こんにちわ、赤ちゃん」を歌って歓迎の意を表して下さいました。写真左は日本軍のコタバル上陸を描いた絵画、写真右は上陸記念の石碑の写真。*いずれも州立博物館の展示より。
クアンタン(1)
コタバルから長距離バスでマレーシア東岸を南下しました。このルートは日本軍の自転車部隊=「銀輪部隊」が当時の言葉で「破竹の進撃」をしたことで有名です。途中、トレンガヌ州の州都クアラトレンガヌという大きい町を通り過ぎ、東岸のほぼ真ん中のクアンタン(パハン州の州都)に着きました。クアンタンには大きな港があって、商業も発達しているため、マレーシア東岸の中では華人人口が多い所です。そのため、日本軍に殺された人も多かったようです。写真左は日本の憲兵隊(?)の駐留していた元「南京旅館」という名の建物。ここで多くの華人が拷問を受けて殺されたそうです。今も幽霊が出るという噂で、建物の持ち主は何度も変わっていますが、この建物でどんなビジネスをしても失敗するといういわくつきです。半地下室には水が溜まっていて、殺された方々の怨念の叫びが聞こえるようでした。花束を持って来なかったので、替わりに着ていた九条Tシャツを脱いでおささげし、鎮魂のお祈りをささげて来ました。
クアンタン(2)
クアンタンで一番古い写真館(1903年開業)のご主人チャン・メンシン(陳明星)さんにお会いしました。クアンタンの歴史の生き証人です。少年時代にご自分が直接見聞きした日本軍との関りを写真を見せながら話して下さいました。当時の華人たちは抗日ゲリラではないという証拠に「良民証」というものを交付され、どこに行くにも携帯が義務づけられていたそうです。お話の中で衝撃的だったのは、家の前にある町の中心広場で行われた拷問虐殺です。日本軍からスパイの疑いをかけられた一人の華人男性が木に片足で逆さ吊りにされ拷問を受けて亡くなる様子の一部始終をお話下さいました。写真館の斜め前の大通りのバス停横には、今も「拷問虐殺死された人々の死体が埋められている」と言われている、小さな竹林があります。
2018.08.28〜09.18 新しい和解を求めて(一)現地の方々との交流
現代のマレーシアの人々はとても親日的で、行く先々でとても親切にして頂きました。華人の方々とは、私が中国語が話せる事とクリスチャンである事(マレーシアのクリスチャン人口のほとんどは華人系かインド系)で、いろいろと打ち解けてかなり突っ込んだ話をすることが出来ました。また、マレー系の方々は一般的に日本人にとても親近感を持っているように感じました。もちろん過去の戦争においては、華人系をはじめ、マレー系の方々も日本軍に屈辱や暴行を受け、その記憶は継承されています。その一方で戦後は大の親日家のマハティール首相の「ルック・イースト政策」の影響もあってか、かなり良い関係が維持できているようです。写真左は、ジョージタウンバプテスト教会の方々と、写真中はコタバルのシティリバイバルチャーチの方々と、写真右はクアンタンのクアンタンバプテスト教会の方々と。(お土産にドリアンの最高級品「猫山王ムサンキング」を頂きました。)
2018.08.28〜09.18 新しい和解を求めて(二)若い世代に希望を託して
クアンタンからはまた長距離バスに乗って、マレーシアの首都のクアラルンプールにやって来ました。去年の2月以来2度目のクアラルンプールでした。西南学院大学(日本のキリスト教バプテストの大学)2018年度前期に私の中国語のクラスを履修していた学生さん(英語専攻)が、後期からマラヤ大学に留学(専攻は国際関係)したので、お会いしました。2人でクアラルンプールバプテスト教会の礼拝に出席し、ユースグループのミーティングに出ました。私が「九条Tシャツ」の配布活動についてお話をし、過去の日本軍のした事について謝罪し、現在の良好な関係について感謝し、将来について若い方々に希望を託しました。(ユースパスター(青年担当牧師)のお連れ合いは日本の東尋坊で数年間にわたり自殺防止の活動をされていた方でした。)
その後、2人でマラヤ大学に行き、その学生さんの住んでいる留学生寮を見せてもらいました。中国人留学生との2人部屋で、2人はとても仲が良く楽しそうでした。その部屋の中で、日本人学生には日本語で、中国人学生には中国語で、西南学院大学の中国語クラスのみんなへのメッセージを語ってもらい、それを動画に撮って、帰国後の後期最初の授業で紹介しました。